お義母さんがお金を使うのやめてくれません!

毎年赤字50万!もうすぐ死ぬんだから、買い物ぐらい好きにさせろ!from義母

案の定

むくむくと膨れ上がる不安はとどまることを知りませんでした。

 

でも、ある意味この時点でみつかったことはよいことだと思っていました。だって、保険や定期・普通預金を義母が受け継げば、約500万はあります。多いとは言えないけど、まだある。それに、今後の暮らし方次第で芽はあるかも?

 

口座の相続には、相続人全員の戸籍謄本が必要です。主人や義妹は、本来義父が残してくれた彼ら名義の保険還付金をもらってもよかったのかもしれません。それぞれ、80万~100万あったと思います。でも、何も言わず、義母に差し上げました。

 

今、あのころにつけたメモを振り返っていますが、混乱していたのでしょう。それから、7年たった今、こんなことになろうとは思いもしなかったせいか、支払いの手続きが早く済んだものから、保険の書類は重要なものだけ残してあるみたいです。

 

主人名義の保険の証書はありましたが、義妹の娘名義の学資保険証書はみつかりませんでした。でも、確かにあったことを覚えています。

それらしき、入金の跡も通帳にはあります。

 

私が主人に言ったことは、

「お母さんの生活を整えてあげてください。お金の管理、苦手なんだと思う。支払い関係はまとめてひとつの口座に引き落としの手続きをするといいよ。今度また、いきなり90万貸してとか言われても困るから、光熱費としてどれぐらい落ちるのか?現金引出を月にいくらぐらいするのか?を半年ぐらい気を付けてみせてもらうようにしてね。いきなり、目的もわからない借金だけは本当に勘弁して!」

 

主人

「わかった。わかってますよ。」

 

うん、こんどこそ大丈夫だよね。だって、結婚式の時も喧嘩したし、何より、葬式が終わったばかり、60万の戒名代のことだって、愚痴愚痴言ってやった。だから、きっとだいじょうぶぅー。

 

  

あっまーい!

 

  

私は、甘すぎたのです。

  

お金の管理に甘い親元で、何不自由なく育てられた子供は、とんでもなく甘いのでした。

 

 

主人の家は、

主人の曽おばあちゃんと

おばあちゃんと

お母さんと

お父さんと

主人と

義妹の

6人暮らしだった様子。曽おばあちゃんになると、年金受給なんてものが始まる前だっただろうから、年金はなかったかもしれないけど、おばあちゃんは10年以上勤めた海軍兵士の嫁。位はどのくらいかわかりませんが、戦死したので、死後勲章6等だったようです。勲章は、名誉であると同時に、終身年金を保証されたことの証であるらしく、おそらくそれなりの遺族年金をもらっていたのではないかと思います。いまでも、義母は、この戦後遺族会の弔慰金運営で年に数万もらっているぐらいなのです。そして、なぜかそれをいろんな人に自慢します。自慢してるつもりはないんでしょうか、実の妹夫婦や、私たち、その他会う人が少しでも自分の話に耳をかたむけてくれそうだと、「その昔は、ここいったいがうちの土地で、株で失敗してなくして云々・・・」「5年で○○くれるらしいんですよ。孫が手続きしてくれて、」を何度も繰り返します。実の妹ももらう権利あるのに・・・・。そういう世間知は一切ないのです。外からでたことはないかたですから。もらえるものは、戦死したお父さんのおかげという意識はほとんどないことが最近分かってきました。

 

とにかく、この家にお年寄りがたくさんいて、総じて長生き。そのぶん、年金はたくさん受給してきた一家なのです。たぶん。いや絶対!

 

戦後すぐは、とても大変だったと思います。そのころは義母も10歳。ちょうど水木しげる様の奥様と同じ年頃ではないでしょうか。曽おばあちゃんやおばあちゃんは、産婆手伝いや裁縫の先生をしていたと聞きます。納屋からもトルソーがでてきました。せっせとお金を貯めて、家や土地の購入代金の返済をされたのだと思います。

 

トルソーってこんなやつ。↓

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この話に関連して、思い出すのは、初めて挨拶にきたころ・・・・。

 

話が脱線するのでやめます。またこんど。

 

とにかく、主人にお願いした生活を整えてね作戦は後に大失敗であったことが発覚します。

 

しかし、

 

このとき発覚するのは、それではありません。

 

家に一足はやく到着した私に、まだ実家にいる主人から、慌てた声で電話がかかってきました。

 

「あ、あのね、今日、年金の手続きとか行ってきたんだけど、それが、それが、いいにくいんだけどぉ・・・・・。

 

 

 

受給できそうにないんだ。」

 

 

( ゚Д゚)

 

 

「そ、そんなはずないでしょ?普通のサラリーマンで勤めあげたんだよね?で、結婚もしてたから、健康保険にも入り、夫婦としてやってきたんでしょ?それとも事実婚とか、内縁の妻的なやつなの?それでもたしか、遺族年金はおりるはずって、本に、本に、書いてあったはずだとおもうけど。。。」

 

実用書は、いざというときとても役立つものです。

 

しかし、私の人生に本にも対処法が書いてない事態が起こるなんて、信じられませんでした。

 

普通の人と結婚して、普通の子供を産み、ま、子供は難しくても、つつましやかで、いつも笑ってのんびりした家庭がいいなあなんて思っていました。欲はかかないぞ!と。

 

でも、それはとっても欲張りなことなんだと、今になって思います。( ノД`)シクシク…

 

お葬式が終わって

お葬式がやっと終わりましたが、私には、95万を早く回収せねばという思いでいっぱいでした。

 

香典代と死亡保険、これが回収元になるのは間違いありません。

 

主人に言いました。

 

「明日、効率よく動かないとだめだよね、明日何をするかまとめるけど、とりあえず保険証書は準備しといたほうがいいよ。」と。

 

実家に来る途中、葬式後の手続きについての本をさっと購入していたので、それらを参考にざっとやるべきことを書き出しました。

 

と、そこへ、保険証書をもって主人が現れました。

 

「これが保険証書らしいよ。はいっ。」

 

と素直にどさっと渡されます。

 

え?こんなに?

 

なんだかバラバラと渡されたのです。1件、1件見ていくうちに、私は怒りに震えるとはこういうことかと思いました。

 

お父さんの生命保険と養老保険が1件ずつ

とっくに死んでる義母の実母(私からすると義祖母)の葬儀互助会1件

義父がかけていた主人名義の保険ひとつ

義父がかけていた義妹の子供の学資保険ひとつ

建物保険がひとつ

・・・・

 

まあ、まあ、む?むむむむむ?

 

義母が被保険者の養老保険が4つ

 

( ゚Д゚)はぁー?

 

内容をみると、2万/月で、ひとつは一括200万でかけ終わってる様子。

 

義父の分は、結構前からかけているもので、それなりに貯まっていました。ただ普通に死亡しても100万というそう多くないものでした。養老保険も200万だったと思います。資料みかえして違ってたら直します。

義祖母の分は手続きを忘れたのでしょう。5万程戻ってきそうです。

 

義母の分は、義母の分は、、、、

 

全部ここ1、2年で始まっているものでちっともたまっていませんでした!

 

あ~ほ~かぁ~

 

こんなものの為に、お金がないから庭木の手入れ代20万出せ、といわれたのか!!

 

毎月6万も保険料にかけていればそれはなくなるはずです。

 

私は主人に、

 

「おかあさん、頭大丈夫かな?認知症なんじゃない?おんなじもの4つかけるっておかしいけど。」

 

Q、この状況を報告されたときの彼の反応は、さてどんなものだったでしょう?

  1. 「え?そうなの?おかしいね、それは。ちょっと医者につれていったほうがいいかもしれない。考えてみる。」
  2. 「あー。昔からあんまり難しいものわからなかったから、言われるままだったかも。でも、たぶん認知症じゃないよ。もともとだよ。よく説明しているよ。」
  3. 「そんなわけないじゃん。さすがに△でも、おかあちゃんに失礼だよ。」
  4. 養老保険って、郵便局だよね?郵便局員が、年寄りに同じものをこんなに買わせるのが悪い!」

 

チクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチ

 

ぴん!

 

さあ、答えはー

 

 

 

 

4.です。

 

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やっぱ、このころから、だめだったんだわ。

 

つい、この間も、これと同じ論法を展開して一悶着あった様子。

 

男の人というのは、こういうものなのだろうか?

私には、ちっともわからない。

 

私は、恐ろしくなって、必死に訴えました。

 

「こんなに契約内容を理解していないということは、テレビでよくやるリフォーム詐欺にもひっかかってしまうよ。あぶないんじゃない?通帳一回みたほうがよくない?変な請求書きてない?それから、養老保険は一つを残して全部解約してきてね。わかった?それから、貸した分はここに計算してあるから、保険金もらったらすぐにかえしてもらって!お願い!」

 

この話し合いの前に、主人は別に私に手伝ってもらうことはなさそう、とのことだったので、会社にも戻ると言ってしまいました。

 

義母がボケていないのなら、保険を解約するよう言っても、応じない可能性があります。お金の修羅場に同席するのは、まだ結婚したばかりの私としては、主人の家の流儀がわからなくて、余計なことを言ってしまうかもしれないという危惧から避けたいと思っていました。そういう意味では、ラッキーだったのですが、郵便局員が悪いと言い切る主人で果たして大丈夫なのだろうか?葬儀の見積もり額も業者に聞けなかった主人で大丈夫なのだろうか?

 

ぜんっぜん、葬儀が終わってホッとなんてできず、不安がむくむくとあっという間に大きくなっていくのをただ眺めていることしかできませんでした。

 

 

 

 

 

 

すぐかえすからが60万に??(4)

そんなこんなで、隣組には計15万ほど。

 

葬儀には150万ほど

戒名代に60万。

225万かかりました。

香典代は120万ほど。

 

そのうち、20万は私たち夫婦と私の実家からの香典で。

30万は主人の会社。

10万は親戚陣。

5万は老人会懇情。

けっきょく、のこりが義母のつての香典代でした。義父はほんとうに大人しいひとだったので、義父のつながりの方たちはいなかったのです。義父にいまでいうお友達がいなくたって、寂しい人だったとは思いません。人生を義母に捧げ、ほんとうにすばらしかったと思います。この部分にかんしては、いいたいことがたくさんあるのですが、いつかいえる日がきたら、書き残しておきたいと思います。

 

義母のつて。。。

 

これが今でも悩ましいことになります。義母は若い頃から、昭和初期からはじまった新興宗教の強烈な信徒なのです。一応、元々の宗教は真言宗智山派です。しかしご本尊である大日如来はおらず、新興宗教の本尊が祀られ、しかも神道の神様もせまい家に3箇所祀られ、庭にはお稲荷様がいます。

 

あまりに多い祭壇に、魑魅魍魎があつまっているようにしかみえません。

 

義母のつては70名ほどきました。

 

この70名に対応するためでしょうか?

 

葬儀代は私たちが立て替えなくてはいけないほどの状況なのに、義母は通夜が終わり、明日が葬儀というときに、こう言いました。

 

「さて、わたしは着物でもきようかしら。着付けをおねがいしなくっちゃ!」

 

とびはねるように電話のもとにとんでいき、相手の方に弾むような声で着付けの予約をしはじめました。

 

「そうなのよ。ええ、そうなの。まあ、そういうことになりましてね、だから明日おねがいしたいの。」

まるでパーティにでかけるような声でした。私は、奇妙に思いながらも、4年にわたる介護生活で疲れているから、ほっとしているところもあるのだろうと思いました。人間の感情は、今見えるものがすべてではないはずだとおもいました。私自身がそうですから。でも、義母は、あの日みた浮き浮きした弾むような声や表情そのままに、嬉しくて仕方なかったのです。私たちの結婚式にもみなかったような高揚した表情でした。あれ以降、義母のあのような表情は一度もみたことがありません。主人曰く、昔よくつれていかれた新興宗教施設での表情と同じ感じがしたとのこと。主人は、本当にその新興宗教が嫌で嫌で、実家とは疎遠になっていた部分があったようです。

 

着物着付けは、着つけてくれる人の家にいって着つけてもらってました。実家には、きつけができるような部屋なんてないからです。

 

部屋がないだけではありません。

 

昔ながらの家なので、台所以外すべて畳部屋です。そこに親戚陣や訃報を聞きつけた方がやってきます。

 

義母は、「△△さん」とわたしの名を呼び、来られた方に手のひらをむけ、私に相手をしろというような態度をとります。私としては結婚式でお会いしたかもしれませんが、そんなの覚えていませんでした。義母は紹介もしてくれません。ただ来たかたの相手をしろといい、自分はさっさとお茶をのみにさがってしまいます。お茶をいれにいったのではないです。ただ、ひっこんだだけです。

 

きた方も、戸惑いながら、お互い自己紹介。故人のお話しをきいたり、お茶をだしたりしました。でもあれがないのです!

 

座布団です。

 

そういえば、それまでもざぶとんひとつだしてもらえなかったわたし。

 

お客様にはあるだろうと、座布団はどこにありますか?ときくと、なにやら裏に大量の衣装タンスで埋められている中から座布団をだしてきました。

 

それも1枚だけ。

 

その1枚は、煎餅布団のように薄く、白いカバーがかかっていましたが、中央に茶色く変色したシミがついていました。

 

親戚・隣組・来客、10名ほどが常にいる状況で、これは使えません。主人も義母も、私がざぶとんを求めた意味自体が理解できないようでした。

 

唯一の床の台所にもスリッパがありませんでした。

いや、あるにはあったのですが、ぬいぐるみ付のスリッパが1足だけ。しかも汚くボロボロです。台所の床は汚れやすいですから、自分の家ならいざしらず、他人のうちではスリッパが欲しかったのです。親戚・隣組のみなさんは慣れているようでしたので、そんなものかと思いましたが、私の実家では絶対に理解されないでしょう。客用スリッパがないなんて。

 

そんなこんなで、あっという間に、通夜・葬儀は終わり、葬儀代はいったいいくらになるのだろう、保険金はどれだけおりるのだろういう不安ばかりでした。庭の手入れ20万+戒名代60万+隣組代15万=計95万。

 

こんなに貸したのなんて、人生初めてです。

 

私は、ドキドキが止まりませんでした。

 

葬儀の日は、義妹家族と私たちは、実家に泊まることになりました。翌日に、色々と死後の整理をしなければならなかったからです。

 

そして、予想通り、布団もありませんでした。

 

義父は介護生活の中、ベッドで寝起きしており、なくなってすぐに業者に引き取らせたのか、私が到着したときには既にありませんでした。ベッド生活になる前につかっていた布団もないのです。義母は、冬はこたつ、夏は畳にかけ布団で寝ているというのです。

あとから主人に聞きましたが、主人が小さい頃はちゃんと敷き布団かけ布団でねていたそうです。いつから、そんな状態なのか、まったくわからないとのことでした。とにかく、義母が使っている大き目のかけ布団を義妹家族3人が。肌布団を下に敷き、バスタオルをかけて、私たちは眠ることになりました。季節は5月。肌寒い感じもしましたし、それよりもこの貧乏たらしさに泣きたくなりました。

 

そして、寝る前に、私には絶対やらなければならないことがありました。

 

 

 

 

やっぱり、いばらの道

お葬式のつづきをかきたいのですが、昨日は昨日でさらにショックなことがありました。こころが千々に乱れて、かけそうにありません。。。横溝正史の悪魔の手毬歌だっけかな、童謡があったとおもうけど、あんなかんじで歌がうたいたくなりました。

 

わたしのいえはかねだらけ

おかねのマサのいうことにゃ

かねはてんかのまわりもの

つかえやつかえ

かねはまわる

つかえやつかえ ひつようなのよ

 

しゅうりをいたしましょうか

ええ、おねがい

 

もうけばなしがありまっせ

ええ、おねがい

 

おうちがさむいの

それはたいへん、たすけあい

 

ほんをかったらしあわせに

それは、すてき

 

おかねはてんかのまわりもの

 

すべてをみんなにささげたら

かみさまがなんとかしてくれる

 

だっていいことにつかったんだ

いいことにつかったわたしはえらい

 

よきおこないをひろめよう

 

まずはむすこにいいました

 

おやこうこうをしなさいよ

にわをきれいにしたい

 

おやこうこうをしなさいよ

あったかいふとんがほしい

 

よきおこないにかんどうして、むすこがわんわんなきだした

わんわんないてよきおこないがもうできない

 

おやふこうとはこのことか

わたしはむすこにめぐまれない

 

むすめはよくきて よくかいもの

たくさんかってとどけてくれる

たくさんとどいたはずなのに

たべるものがどこにもない

 

いいわすれ ものわすれ

 

わたしはとしをとったものだ

としをとったものがえらいのだ

 

おかねはてんかのまわりもの

 

どんどんつかえ

 

としをとってえらいのだから

すきなようにつかうのが

ひとのさだめ

 

わたしはよきひと

えらいひと

すぐかえすからが60万に??(3)

隣組

 

文字にするだけでも恐ろしい。

歴史の勉強ででてきたような・・・。私が学んだ教科書では、確か5人組。

年貢をおさめられない時には共同責任とやらになる、あの5人組。

 

江戸か、ここは江戸か?自治会とかじゃなく、隣組って。

しかも、ここでは5人ではなく10人。そう、10人組の隣組なのでした。

 

一昔前、私が小学1年生の時になくなった祖父の葬式は、古い家の大きな畳部屋を5室分ぐらいをぶち抜き、祭壇をおき、葬式からお食事まで、その大広間でやっていました。お食事は、ご近所の奥様方が総出でつくってくださり、今のような業者とよばれるような方の気配を、おさなかったせいかほとんどおぼえていません。とにかく忙しかった。

 

その時代の名残なのでしょう。隣組が一斉にあつまり、それぞれが役割をはたすので、それに対して礼金を払う仕組みになっているというのです。ところが業者が請け負うはずのサービスにそれらは含まれており、現代ではほぼ頼む必要がないのです。

にもかかわらず、業者と隣組と両社が担当し報告しにくるのでてんやわんや。葬儀社は弁えているのか、事情を察した後は、控えてくれました。しかし、最初の打ち合わせではパック料金の中に含まれていたはず。はっきり言って、隣組は完全に邪魔でした。この隣組は飲み食いまで盛大にやらかしていくのです。

 

なんと礼金は基本ひとり1万円

 

いいですか、基本です。車を出した方にはプラス1万円 

当時にメモした役割表は以下です。

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○○は私の主人。△△はわたしです。

車なんて何に使ったのか、僧侶の送迎かな???

さらに、さらにですよ。

基本1世帯から1人お手伝いにくるのですが、基本はご主人がきてくれます。このときは確か、9世帯の内、8世帯がご主人、1世帯が嫁らしき40代ぐらいの女性でした。

で、で、ですよ。こなかった奥様方にも1000円のエプロンを配ってまわるというのです。

そんなのは精進落としの料理をつくってもらった頃の習わしだろうよ、なんで祝い事でもないのに、エプロンを配って歩くの?こちらから出向いて?

エプロンなら、私の結婚式の時に配り歩いたろーが!

 

上の表には火葬所手伝いとか、あるけど、焼いてる間、軽食を食べるらしいのです。その時の準備らしいのですが、業者が全部やってくれるので、ごまかしで、ジュースを配り歩いてるだけ。

受付も主人の会社からの応援があったので、要らないし。

ほんっとーに、こんな働きでなぜこちらが礼金をださなくてはならないのか全く分かりませんでした。お茶もこちらがずっとだすんですよ。ひとりの女性だけ、ごまかし程度に手伝ってはくれましたが、そもそも義母の家は大体が整理されていないので、おちゃひとつだすのも大変で、手伝いようがないんです。

義父の葬式ではなく、隣組のおもてなし式のようでした。

 

老人会

謎の言葉がまたでてきたでしょ。これ近所の式には出席できない人たちが、喪服も着ずに、本当にお悔やみだけに庭にくるっていう儀式で老人会懇情っていうんです。縁側に文机おいて、庭からお参りしてくれるのだけど、本当にこれだけ。机用意するだけですよ。

この準備料が3万円。

 

精進式には、アルコールも用意するといいはじめて、飲むのは隣組だけ。

 

親戚はみな車できているのです。飲めないから出す必要ないのでは?と言ったのですが、主人と義母に却下されました。

 

酔っぱらって、大声ではなし、笑う隣組のジジイども。

 

おまえらの香典はそろって2500円程度だったし、私たちの結婚式にも同様の金額で飲み食いしやがったなー。

 

昔は、この隣組の制度はうまく機能していたのでしょう。

 

でも、

 

でも、

 

でも、

 

これは、違うんじゃない?

 

Webで調べると、あなた達は何もしなくていいから、とか言ってくれるらしいのですが、そんな言葉はちっともありませんでした。

 

ずーっと、気をつかってお茶を出し続けたのはこちらです。

 

つづく

 

 

すぐかえすからが60万に??(2)

私が翌朝到着すると、いそいそと主人が駆け寄ってきました。

 

「あのさ、預金がまったくないんだけど、戒名代が60万かかるから貸してもいいかな?結構な額の死亡保険がおりるって言ってるし、貸したいんだけど。」

 

周囲には、義妹家族含め親戚陣がおり、主人にむけて返せるのは、疑惑の目と「いくらもらえるっていうの?」が精一杯でした。

 

「600万」

 

という返事が返ってきましたが、どこをみたのか問うと、保険証(A5の更に短辺で半分にしたような大きさの保険証書)小さく給付条件が書かれているのですが、私もさっと理解することはできませんでした。私が理解できていないのに、このような固い文書を読むのが苦手な主人にも理解できるわけもなく、直感でちがうと思いました。

 

それでも、私は挙式費用をだしてもらったからとの思いで、「あなたがいいのであれば、どうぞ」と言ってしまいました。

 

挙式費用は本当はだしてもらうつもりはありませんでした。主人の実家はみるからにお金がなさそうだったからです。更に脳こうそくの義父もいる中、自分でやれるだけにしたいと言い張ったのですが、私の実家の希望で挙式費用は主人の実家がもってくれ、富山の挙式費用は私の実家がもつから、となったのです。

 

主人には、私の希望を伝えましたが、「出してくれるって言ってるからいいじゃないか!」ととりあってくれず、「いくらでもつかっていい」というほんのり怖いお言葉だけを義母からもらうことになったのです。

 

戒名は、最高クラスのものでした。

 

私 「最高クラスのものじゃないとダメなの?」

主人「おかあちゃんが、いつもうちはそのクラスだから、と言ってきかないから」

私 「でも、貯金ないのに?」

渋い顔をするのが精一杯でした。

 

私にはもう一つの懸案事項がありました。葬儀代です。

私 「ところで、葬儀代はいくらになりそうなの?」

主人「さあ、わからない。ぼくがついたころには、叔父さんが全部きめてくれていて、だからわからない。」

私 「業者の方にきけば?」

主人「そんな雰囲気じゃないし、もう決まってしまっているから。」

( ゚Д゚) ハァー?????

 

保険金で賄える金額かどうかもわからないのに、60万は貸すのか・・・。

 

この頃から、主人と私はもう駄目だったのかもしれません。いや、その前の結婚式の時から。

私たちは、60万の貸付に、自分たちの香典やら供物代をだし、更に隣組という謎の組織にお手伝い料を払う羽目になったのです。

 

つづく

 

 

 

すぐかえすからが60万に??(1)

庭木の手入れが20万事件から、瞬く間に半年が過ぎました。

借金あるある定番で、もちろん返ってくることはありませんでした。

 

彼にも催促いいにくいなと思っていたところ、勤務先に主人から電話が!

 

「義父が危篤だから、一緒にきて」

 

義父は、この4年前に脳梗塞で倒れ、義母が在宅介護をしていたのでした。

その件もあり、庭木の手入れ20万事件にあまくなってしたこともあるかもしれません。

義父とは、結婚の挨拶に行った時とその後数回お見舞いにいっただけとなってしまいましたが、私が行くたびに号泣でした。当時は、号泣する理由を年をとったせいと思っていましたが、なにか思うところがあったのかもしれません。

主人曰く、義父はなんの趣味もなく、主張もなく、ただただつまらない会社だけの人生の人という評価だったのですが、私には優しい義父にみえました。まあ、一緒に暮らしもしてない、介護もしてない私ですから、よい面しかみえないのかもしれません。

 

でも、そんな義父が一度だけ我を通した件があります。

 

結婚したばかりの私たちへの新居にどうしても行かなければならないと言い出したのです。

 

義母も義妹も主人も一様に、「お父さんがそんなに頑固にいいはるなんて驚きだ」といいました。脳こうそくの後遺症で歩くのもままならず、ほとんど車いす状態で、出歩くのを極力避けていると聞いていました。

そんな義父が、私たちの新居にいくと言い出したのは、息子が世帯を構えたことに対する親としての最後の締めの責任を果たしたかったのだろうと思います。

その時も、義父は来て、ほとんど話すことなく号泣でした。

 

駆けつけたとき、義父はもう意識がありませんでした。

何度も体をさすりました。来ましたよ、と声をかけました。

 

お医者様からは、このままずっと生き続けるかもしれないし、すぐに亡くなるかもしれない、ある程度の持久戦の覚悟をと言われ、会社帰りに駆けつけていた私たちは泊まれるように一旦自宅に帰宅し、持久戦に備えることにしました。

 

電車の中で、今後のことで主人にアドバイスを何度もしました。

そう、このような事態でも私は

庭木の手入れ20万事件を忘れませんでした。

 

「これから、義父がなくなれば、義母は直後は葬式もあるし、バタバタして気もはるから元気なようにみえるでしょう。でも、しばらくしたら、がくっとくるから、その時に頼りになるのはある程度のお金でしょう。介護生活がつづき、疲れているだろうし、いかにお葬式の時にお母さんにお金を残してあげられるか、頑張ろうね。庭木の手入れ代のこと考えても、家計はぐちゃぐちゃなんじゃない?とりあえず安心して暮らせるように手はずを整えようね」と話し続けていたのを思い出します。自分のやさしさに目頭があつくなります。

 

そこへ、携帯電話がブルルル。

 

「あ、亡くなったって」

 

がっくりきました。当時、ちゃんとした喪服をもっていなかった私はそのまま喪服の準備に行き、主人は先に一旦帰宅後、すぐに実家へ向かいました。私たちが住んでいたところからは2時間30分ほどかかり、主人が到着したのは、連絡をうけた叔父様方より随分とおくれることになってしまいました。私は喪服の準備を含めると当日中に向かうのが難しく、義母宅は駅からとおく迎えの車もなく、なにより客用布団もなかったため、翌朝再度向かうことになりました。

 

主人とわかれるとき、

「死んでるものより、生きてるもの!さっきいったこと忘れないでね!がんばってお金を残せるよう手はずを整えてきてね!がんばってね!」

何度も言い、終いには、主人には「わかってるって!」と怒鳴り返されました。

 

でも、今思います。

あのとき何が何でも主人について、行くべきでした。